大野 加壽子のバスケ細腕繁盛記

◆はじめに
私がオリンピックに出場したのは1976 年、カナダのモントリオール大会でした。

私は中学・高校・実業団と進みユニチカという実業団で最終 的にバスケットボール選手として開花させてもらうわけですが、その当時ユニチカは、バレーボール日本一がよく知られていました。しかし、バスケットも日本一だったのです。

日本一になる実業団の練習 ってどうだろうと思われますが、はっきり言って地獄でした。あくまで二十数年前の話ですが、覚悟は して入ったつもりでも、チームの練習は時間も内容もけたはずれで、一日の日程は六時起床、八時まで 早朝練習で朝食を取って九時出勤、十二時退社、三時より監督が納得するまで練習です。特に一年生の間はボール磨きに上級生の練習着や下着の洗濯、食事の用意に後片付けと練習以外にやることが多く、一日中走り回っていました。

その上特に体育館内の掃除にはとても厳しく、毎日バスケットシューズの裏まで掃除して5センチ間隔に並べて、きちんと置いておくことまで言われました。窓に埃があったりしたら上級生から大目玉、それだけに体育館はいつもピカピカで、入るとピーンと気が引き締まったものです。痛いまでにとぎすまされた雰囲気と集中力がなければ日本一など目指せないと教えられました。

一日の生活もすべて練習に結びついていて、洗濯も手洗いで筋力強化に努めます。練習が終わると、一年生はコートからお風呂へ行くまでの通路に何個かのバケツをすぐ並べます。先輩達は次々に脱いでバケツに入れていきます。それを抱えて洗濯に走り残りの者は急いで風呂に入って、自分の汗を流す間もなく先輩の背中を流し、その流し方も決まっていて順序を間違えると叱られます。

一度教わったことはきちんと覚え、その場その場ですぐ対処できるトレーニングのひとつです。(こういったことは今、嫁姑の間で大変役に立っております。)また、実業団のイメージとしてつきもののコーチ“愛の鞭”ビンタは日常茶飯事でした。今、思うと自分でもよくやったなと思うのですが、ではどうしてそれでもがんばれたのか、その精神力はどこで養われたのかということで、私の小さい頃の話を少ししたいと思います。


一本の鉛筆
私がバスケットボールを始めたのは鴨川中学2年の時。入学時から姉の影響でバスケットボールを したかったのですが、父親にボールが顔にあたったら危ないと反対され球の小さな卓球部に入らされま した。私は6人兄弟の末っ子。頑固で厳しい父親でしたが私に一番優しかったと他の兄弟は言います。

でも、バスケットボールをやりたい、やりたいと思って入った卓球部では やはり長続きせず、姉の助けを借りて1年かかって父親を納得させ、2年生の時バスケット部へ入部。自分のしたかったことがやれるのでうれしくて、うれしくて毎日放課後が楽しみでした。2年生の頃、身長が154pで今から20数年前ですので学年で大きい方でチーム一高かったのです。(今は小6で160p位の子はざらで、全国大会では175以上pの子供もいます。私がランドセルを背負って学校へ行く姿を想像してください)

そして入部して半年位でスターティングメンバーに入れてもらえました。まだまだシュートさえろくに入らない私がレギュラーにいれてもらい、もう更に気分は最高!でもだんだん練習しながらおかしいなと思い始めました。私は2年からの途中入部ですが入部した時は一緒に頑張ろうと言ってくれた同僚からのパスが来ないのです。私がレギュラーに入ったことで1年生の時から一緒に頑張っていた仲良しの子がレギュラーから外されてしまった事への”無言の抵抗”にあったのです。私が実力で取ったならともかく、ろくにシュートさえ入らないうどの大木でしたので同僚に心よく思われなかったのは当然です。

今の私から想像もつかないかもしれませんが、人とおしゃべりするのが嫌い、無口で友達作りが出来なく限られた2,3人の子としか喋ることの出来ない子供でした。同僚や上級生と話をする訳でもなくチームに溶けこもうともせず練習に来る私を、皆は変な子と思っていたようです。

練習で一所懸命動いてもパスがなかなかこないからだんだん落ち込んでくる。先生がいるとパスがきて、先生がいないとパスが来ないから”やっぱりみんなに嫌われてる”と感じ、家に帰るとどうしたらいいかとそればかり考えていました。出した結論は、”シュートさえ決めたらパスが来る様になる””絶対シュートを決めてやる””早くうまくなってやる”ということでした。

”自分さえ頑張ればいい”中学の時はまだ自分の事しか考えられない私でした。自分から心を開いてしゃべりかけていく、チームの中へ溶けこむなど全く考えられなかったのです。そう決心してから、毎朝走り、昼休みはシュートを打ちに行き、練習には人より早く行き、帰ってからまた走って…と、勉強そっちのけでバスケットボールがうまくなることばかり考えていました。けれど、一か月もするとだんだん疲れて来る。その上同僚は急に練習だけがむしゃらになって一人だけシュート打ったりする私に逆に反感を持った様で、チームから余計に浮いてしまいました。

私はチームメイトに ”わかって”とアピールするばかりで、こちらからわかろうとしませんでした。テレビドラマだとこの辺で何かきっかけがあり、お互いが泣きながら手を取り合って ”一緒にがんばろう”という事になるのですが、現実はそうはいきませんでした。 精神的にも、体力的にもくたくたになり、ある日宿題もせずに寝てしまい、大慌てで起きたら机の上に長いのやら短いのやらエンピツがきれいに削ってきちんと揃えておいてありました。すぐに母だとわかりました。当時エンピツ削りは我が家にはなく、小学校高学年の頃から自分が手で削っておりました。

私の母は、私が小さいころから仕事をしていまして、私はいつも母がいつ寝て、いつ起きたのか知らないくらいでした。

突然暗い話で恐縮なのですが、私の父は私が生まれてすぐ体が悪くなって働けなくなり、母が働いていたんです。当然、家は裕福ではなく物心ついた時から近所の子によくからかわれました。”お前とこはいつも家にお母ちゃんがいない、こんなおもちゃも持ってないのか”と。子供心に人が持っているのに自分は無いのは悲しかったし、いじめられても慰めてくれる母はそばにいなくて、いつも淋しく、泣かされるのがいやで自然と一人で遊び、友達と遊ぶのを避ける様になりました。

そんな幼時体験から私はほとんどしゃべらない子供でした。家に帰ると、父が仕事から帰った母をいつも叱ってばかりで、気に入らない「おかず」だと ”こんなもの食えるか!”とお膳をひっくり返したりで母はよく泣いていました。私は母を泣かす父が大嫌いでした。兄弟は皆、父は私には甘いと言いましたが、私はちっともそうは思わなかったし、高3の冬、父を亡くした時もそんなに悲しいとは思いませんでした。逆に、母が楽になって良かったとまで思ったのです。

母は朝早くから夜遅くまで働いて自分もくたくたのはずです。私は母に、今自分がバスケットボールでどの様な立場か、どんな思いでいるかも一言も話さなかったし、母も聞きませんでした。寝てしまった私を起こすでもなく、しんどい体で1本1本丁寧に削ってくれているエンピツが”がんばりよ!”と言っている様で、その日を機にまた一段とがんばろうと思いました。無口な私は母にありがとうを言わなかったし、母も何も言わなかった。その母も亡くなりましたがこの事は今でも強烈な印象で残っていますし、その時は、最高の励みになりました。

3年生になる頃に身長は170pを越え、町でおばちゃん達に逢うと上から下まで何度もみて”あんた本当におなごかな?”と言われるくらい大きくなりました。ゴール下でボールをもらって振り返るとディフェンスがいない位飛び抜けた身長になって、シュートもほとんど決まる様になり、同僚の落としたシュートをリバンドして入れると ”ありがとう”と言ってくれるようになり、私もナイスパスをもらうと ”ありがとう”と言える様になっていました。

こうしてバスケットボールを頑張ってると、不思議とその頑張る気の余韻で勉強も頑張ってしまうのです。この頃から勉強もおもしろくなり始め、親が驚くほど成績が上がっていきました。(下がる余地が無かったので、あとは上がるだけだったのです。)

バスケットボールにより、何事にも消極的だった私が ”人に認めてもらえる””私にも頑張れるものがある”と知った時、私は少しずつ変わり始めた様に思います。その時の3年生には素質の素晴らしい子が多く、今年の鴨川中は強い強いと言われる様になり、中予を二分してA・Bに分けたBブロックで優勝し、Aブロックで優勝した雄新中と戦い、この雄新中にいた私と同じ位長身のセンターに私が見事にやられて負けてしまいました。

後に、この鴨中の優勝メンバーがカタリナ高校へ、雄新中の優勝メンバーが済美高校へ進み、インターハイをかけてまた戦うことになります。が、これは後ほど。私はこの中学時代の2年間のバスケットボールを通して、やらされた卓球部をやめて、自分のしたかったバスケットボールが出来る嬉しさ、親から押しつけられたものではなく、自分が選んだ事だから頑張れる気力を養いました。もし好きでもない卓球部でこの様な事があったら私は、すぐにやめてのらりくらりと中学校時代を過ごしていたかも知れません。


◆アメとムチの青春
そしていつも背が高いばかりに人からじろじろ見られるのが嫌で猫背だったのが、この身長が武器と思った途端胸を張れる様になり、もっと大きくなりたいとさえ思いました。バスケットボールも勉強もおもしろくなって、高校へ行って勉強とバスケットボールをやりたいと自分自信に少しずつ自信を持ち始めた私ですが、家庭の事情から進学はあきらめ、就職することになります。

今度はここで、担任の先生から大きな愛情をいただくことになります。私が進学したいけど就職すると言いますと、その日から先生は父の元へ日参してくれたのです。先生は父に ”おとなしくてただ淡々と中学生活を送っていたあなたの娘さんが、やる気というものをもち始め高校進学出来る能力を持ってきた以上、ぜひ高校へ行かせてあげて欲しい。”と言ってくれました。

先生って、目立たない私のこともちゃんと日頃見ていてくれたんだなって思うと、とても嬉しかったです。しかし父は ”家庭のことだ。ほっといてくれ!”の一点張り。いろんな高校へ行く方法を持ってそれでも先生は日参してくれました。そんな時に聖カタリナ高校からバスケットボールの特待生の話があり、担任の先生の日参のおかげで、私は高校へ入学出来ました。私のためにとても努力してくださった先生は後に校長先生となられ、とても活躍されました。

そしてその行きたかった高校で、私は実業団でやり通せた精神力を養ってもらった様に思います。高校で私を指導して下さったバスケットボールの先生は女の先生だったのですが、とんでもなく厳しい先生で早朝練習から始まり、夜の8時すぎに練習が終わるまで気の抜ける時間がありません。”お前たちは聖カタリナ高校バスケットボール部に進学したと思え!”と言うくせに授業中居眠りでもしようものならちゃんと各クラブ活動の先生方は仲がよいのですぐ連絡がいき、教官室に呼ばれ大目玉をいただきます。”バスケット部員たるもの常に一般生の模範であるべし”これが先生の口ぐせでした。

コートの中では、竹刀は飛んでくる、スリッパは飛んでくる、椅子は飛んでくるで男の様な先生でした。背が高いだけで通用したのは中学だけで、高校では逆に自分の能力の無さ、未熟さを思い知らされました。そして私は自転車で行き帰りに50分位かかる通学時間が惜しくて寮に入れてもらいました。

何でそうしたかといいますと、中学のスターティングメンバー事件と同じく、入学して2ヶ月とたたないうちに、今度は3年生を落として私をメンバーに入れてくれたのです。先生がメンバーの中に私の名前を呼んだ時、3年生も2年生も同僚もあ然としました。

”また、中学の時と同じ思いをする… また1人だけ浮くのはいやだ!”と思いました。早く、1日も早く、メンバーからはずれた3年生の人がこれならスタメンを譲っても仕方がないと納得してくれる選手になろうと心に決めました。それと、中学の決勝の時、同じ身長の雄新中の子にコテンパンにやられたくやしさが頭にこびりついていたのです。

ところが、この辺でバラしますが、謙遜ではなく、私は人よりボディコントロールが優れて無くて、はっきり言ってセンスが無いのです。走るのが1等でも、障害物競争は言いたくない順位なのです。それでバスケットボールの方も人より覚えが遅く、他の人が2,3回で出来るところが私は出来なくて、先生から”もういい!やめろ!お前のへたくそなプレーを見ていると腹が立つ”とよく言われ、悔しい思いをしました。

こういうと私がカリカリして、より以上頑張る性格をすでに先生は見抜いていた様に思います。寮は学校内にありました。一人残って何度も練習し、翌日、ほら先生できたよって顔で先生を見るとそれでもヘタクソ…としか言ってくれず、よく泣いたものです。今だに先生からは ”お前はよう泣いたのう。私が泣くな!とおこると、泣いてません。涙が勝手に出よるんです。と言ってぐじゅぐじゅの顔しとった…”と からかわれます。

この先生にはよく殴られよく叱られ ”もうこんな先生大嫌い!” と思うのですが、練習が終わって帰ろうとすると ”寮じゃええもん食べられんやろ、もっと太れよ”と紙袋をくれるんです。 中にはドリンク剤,おすし,やきとりとかおいしいものがたくさん入っていました。その先生の心遣いがうれしくて、寮の部屋では泣けませんからトイレでまた泣いては ”やっぱり先生好き。あしたからがんばろう!”と思ったのですから、私はかなり単純!


◆インターハイへ
高校時代の最大の思い出は、3年生の時の新人戦と、インターハイをかけてライバルの済美高校と戦った総体です。絶対に負けたくないと思い、また、まわりも今年は絶対カタリナ優位だと言ってくれていたにもかかわらず、なんと新人戦で見事に負けてしまったのです。泣きながら喜んでいる済美の選手を見ながら、この時はじめてくやしすぎて泣けないこともあることを知りました。

今でもこの事を思い出すと目がつり上がってくるのですが、その日以来コート上で同僚に指図されてもしたことのなかった私が”パスいれて””もっと走って””ノーマーク””落とさないで!”なんて声がでるようになりました。つらくてもうだめだーと思う練習も、済美の選手たちの喜びの顔を思い出すと乗り切れました。そしてこの頃に、中学時代のパスの来なかった原因は、来ないんじゃなくてパスが来るように私が動いていなかったんだと気付きました。

インターハイ初出場をかけた総体では、先輩達も大勢来てくれその前で見事に優勝しました。私達は全員、大声で泣きました。先生の所へ飛んで行って抱きついて泣きました。ところが先生は涙ひとつ浮かんでなくて、”よくやったな!”の一言だけが帰って来ました。そして優勝杯を私達から取るとマネージャーに渡して ”ありがとう、お前らのおかげじゃ”そう言いました。次に涙でぐしゃぐしゃの先輩達の前に行って ”お前達が作ってくれた伝統のおかげじゃ”とはじめて先輩達と抱き合って泣きました。

学校に帰って先生は ”お前達は勝って当たり前のチームだから、自分たちの代が一番強いなどと決してうぬぼれるんじゃない。それより練習時間の少ない県立高校に負けながらも、体育館のぞうきんがけの仕方から今日までの伝統を作ってくれた先輩達に感謝することを忘れるな!”と教えてくれました。自分がよい思いを出来るその裏に縁の下の力持ちがいて、誰に一番感謝すべきか教えてくれました。そして出場したインターハイで、ユニチカの監督に声をかけていただき、全く思ってもいなかった当時日本一だったユニチカへ就職することになりました。

実は、高校進学する時に中学校の校長先生が面接試験の練習をして下さった時、私に”将来は何になりたいですか?”と聞かれ”バスケットボール日本一のユニチカに行って素晴らしいバスケットボール選手になりたいです。”と答えると”そのユニチカはどこにあるのですか?”と聞かれ、”知りません。”と答えて大笑いされたことがあります。

母は、ユニチカに行くことを決めた私を”わざわざしんどい思いせんでも…”と反対しつつも大阪まで送ってくれました。その時少ない荷物でしたが、私に荷物を持たさないのです。”重いけん持つよ。”と言っても ”あんたはこれからいっぱいしんどい思いするんじゃけん、今は持たんでええがな”って言うんです。この言葉も母からもらった、忘れられない言葉の一つです。


◆監督の一言
ユニチカでは、お化粧も髪を伸ばすことも禁止でした。服装もスカートよりジーパン、ブラウスよりシャツ、休みの日もボーリング・スケートといった万が一怪我をするスポーツは禁止。もちろん男女交際はとんでもありません。そんなことを考える暇があればバスケットのことを考えろ!と教えられました。勿論そういったことに興味はあったし友達が結婚すると聞けば、いいなとも思いました。

けれど一度もうらやましいとは思いませんでした。おしゃれも恋も、遊びも結婚もいつでも出来る。でもバスケットを思いきり出来るのは今しかないと思っていました。

ユニチカでうれしかったのは、監督がどんなに実力があっても努力しない人間は使わない事でした。逆にヘタでもいい頑張る選手はどんどん使っていく、という主義でしたので、一番ヘタくそだったのですが、よくコート内で使ってくれました。そして、いつも”トモ(チームでのニックネーム)上手くなりたかったら恥かけよ!出来ないから恥ずかしいと引っ込んでたら上手くなれんぞ。コートの上の恥かきは最高のプレーなんぞ!他のプレイヤーになどあこがれるな。あこがれられるプレイヤーになれ!”と監督は言ってくれました。

頑張る程使ってくれるのでさらに頑張り、努力することが楽しくさえなってきました。上級生のプレーを見て ”あの人に出来るんなら、私にだって出来るはず。いつかあの人を追い越すんだ!”っていつも考えていました。涙の出ることも多かったけど、望むプレーが出来た時の喜びの方がはるかに大きく、次はあのプレーを、次は・・・とプレーに幅をつけることばかり考えていました。

監督は、そんな私を2年目でナショナルチームのメンバーに入れてくれ、3年目にアジア大会のスターティングメンバーに入れてくれました。この時が1番乗りに乗っている時期でした。イランでのアジア大会の1回戦で、私は自信を持って試合に望んだにもかかわらず、何とやることなすことミスだらけ。初の国際試合であがってしまい、1得点5ファールという悲惨な結果になりました。

試合はもちろん勝ったのですが、私は帰りのバスの中で、叱られる恐さと自分のみじめさとチームの皆への申し訳なさと、せっかく国際舞台へ出してくれた監督さんへの申し訳なさ、そして監督さん怒ってるだろうな、当 然スターティングメンバーははずされるだろうな、監督の信頼失っただろう…いろんな考えが頭の中に氾濫していました。

ミーティングが終わり”トモ!”って呼ばれ、息を殺して監督の前に立つと、じっと私の顔を見て”期待しとるぞ。あした がんばれよ” ただその一言でした。頭の中の霧が一瞬で晴れました。私はこの時私が心に思った事を絶対忘れまい、と今も思っています。たった一言の言葉の大切さをしみじみと感じました。あの時、もし監督から叱られ、殴られていたなら私はきっと翌日立ち直ることは出来ていなかったと思います。

あの一言のおかげで、残り3試合自分の納得のいくプレーが出来ました。日本はアジア大会で金メダルをもらい、世界選手権への切符を手にしました。努力すればそれがすべて実り、私は努力さえすればこのまま世界選手権・オリンピックと行けると思っていました。そして、体を痛め疾患を持った選手が、ちょっと練習が多くなったりしんどくなると膝や腰が痛いと言って休む姿を見て、もっと頑張ればいいのに、結局けがに逃げて努力しないでいるだけだ、何の為にバスケットをやっているんだろう、と思う様になっていました。


◆挫折…母からの手紙
そんな私に神様は見事に天罰を下さいました。合宿中に右足を捻挫しました。右膝半月板損傷、靭帯切断という致命的な大怪我をしました。こんな怪我に負けるものかと3ヶ月近くのリハビリ後、万全を期して入った練習コートで2度目の捻挫をしました。これでスターティングメンバーの夢は断ち切られました。その後何度も、関節痛での休み、リハビリ、練習を繰り返しましたが、三度目の捻挫への恐怖と、思うように動かない膝を抱え、どんなにあがいても最高時のプレーが出来ませんでした。

この時、努力しようにも出来ない人の心の痛みを知りました。私はこの時に、あの大嫌いな父が許せました。父のあの態度は、家長として満足に家族の為に役立てない自分の腹立たしさを母にぶつけていたのだろうと思えるようになったのです。あのまま怪我をしないでいたら、とんでもない高慢な人間になっていたでしょう。誰だってスターティングメンバーの座が欲しいのです。日本一のチームに来てその座を勝ち取るために努力しない人間なんていないんです。ただ努力しようにも、すればする程体がいうことを聞かなくなる。このジレンマに悩みながらも練習が終わると明るい笑顔で皆と笑っていたんです。

私は今でこそ人の痛みがわかったなどと言っていますが、その時は奈落の底へつき落とされた様で、膝を治しながら、やってもやっても思い通りのプレーが出来ない自分が情けなくて死んでしまいたい位で、母に電話しました。母は涙声で”そんなに辛いことをせんでええがな。はよ帰っといで。先生にも監督さんにも母ちゃんが謝ったげるけん”と言うばかりで逆に母を慰めないといけないほどで、こりゃいかん私が落ちこんどる場合やない、もう一度とばかり整体に通い、テーピングで膝をぐるぐる巻きにして練習しました。だましだましでも練習を続けていると、だんだんプレーも元に近い状態に戻ってきたにもかかわらず、監督は2度と私をスターティングメンバーで使おうとはしませんでした。

ユニチカでは、時々ごちそうを囲んで ”明日は練習休みにするから今日はいっぱい飲めー”とお酒を飲ませてくれる時がありました。私は、お酒の勢いで監督にくってかかりました。”監督さんは、どうして私を使ってくれないのですか? 私はもう一度チームの役に立ちたい。この手で優勝杯をユニチカに持って帰りたい。その為にがんばってる。プレーも大分元に戻ってるつもりなのに…”と言ったら、監督さんは ”それはお前のエゴだ。体の失陥をおして頑張るのは、一見美しくみえるけど、それでスタメンに使って試合前にまた怪我をしたらプレーを合わせていた他のメンバーはどうなる?お前1人の為にチームが崩れる事になる。チームの事を考えるならまず自分が自分がと言わずに、お前がどうすればチームの皆が気持ちよくプレー出来るか考えろ!”と悟らされました。

納得するのに時間がかかったけど、私は専門職になることを決めました。シューターになろうと。シューターなら今1本欲しい時にチームの役に立てる。それと、にぎやかに声を出して人を励ます事。くじけてる後輩達を引き上げる事に努力しようと思える様になりました。それから毎日1,000本シュートを行いました。泣いて電話してからは、母からしょっちゅう手紙と小包が届きました。無学な母はカタカナしか書けないので、とてもたどたどしい文字で ”カズコゲンキ? 母チャンハゲンキダカラアンシンシテネ。オカシオクリマス。オレイノハガキハイイカラ カクジカンガアッタラヤスンデネ。”いつもこの文句でした。お菓子は、私が小さな頃に好きだったもので、ボーロとか飴とかで、こちらの売店ですぐ売っている物ばかりですし、その頃の私は、もうそんな子供のお菓子は食べなかったのですが、母の送ってくれた物と思うと泣けてしまって困りました。

◆突然のキャプテン指名
私の夢であったオリンピックに出るためには世界選手権で3位以内に入らないといけません。その世界選手権に向かって何度も全日本の合宿を行いましたが、そのメンバーは不思議とほとんど中学高校とそんなに有名だった人ばかりではないのです。皆努力の人であり、人のことを思いやる心を持った人たちでした。世界では女子でも旧ソ連の2m10pを筆頭に190p代はゴロゴロ。180p代は当たり前です。平均身長174pの日本のちびっ子集団が世界に向かっていくのですから、3位に入るのは奇跡に近いことです。

それで”奇跡への挑戦”と銘打ってとてもハードな練習をこなしました。例えば開催地となる夏のコロンビアを想定して、夏に体育館の窓を閉め切り、37度の中でみっちり4時間の練習です。水を飲ませてくれないので、汗を拭くタオルの水を吸う。そんな苦労を共にしますから、メンバーはいろんなチームから集まっているのに、全日本が母体で、各チームへ帰るのではなく”行って来る”と言うようになるまとまりが出来てきました。

合宿では練習が夜中の1時になることもありました。勿論頭は思考力が殆どありません。そんなときに最もたまらなかった練習は、誰かが1本でもミスをしたら練習をやめるというものです。今なら倒れた振りをしてミスして、やーめたにすれば良かったなどと考えられますが、その当時は皆自分がミスをしたら飛んでくる鉄拳がこわいのとチームに迷惑をかけるということで必死になります。ミスをしないためには危ないプレーはやらなければいいのですが、それをやらないと世界では勝てませんから、自分の精神状態が極限の状態でいわゆるナイスプレーをしないといけない訳です。

パスミスになりそうならミート、シュートミスはリバウンド、ドリブルミスはルーズといった具合にミスをミスにしない為の努力も全員でするわけで、チームワークも生まれ、ボールに対する粘っこさも養われます。これはすごいプレッシャーの中でもいかに平常心と集中力を維持するかの練習なのです。私は、世界選手権にチームのムードメーカーとして、そして、野球でいう”指名打者”の様なワンポイントシューターとして参加させてもらいました。

その奇跡への挑戦が本当のこととなり、皆の努力で世界で2位という結果に結びついたのも、こんな平常では考えられない状態でも目標のためならひたむきに頑張れる集団だったからでしょう。世界選手権から帰った私に、監督からユニチカのキャプテンを命ぜられました。”キャプテンたるもの自ら動き自らの手で優勝をもぎ取る位のものではないとチームは引っ張っていけないから、今の私では無理です。”と言うと”技術だけではキャプテンになれん。今のユニチカには、若い頃のお前とそっくりな火の玉の様な選手ばかりだから、こけた時に助けてやれるキャプテンがいてもいいんじゃないか。”と言われキャプテンを務めましたが、動けない分監督にはよく殴られました。


◆そしてオリンピック
夢だったモントリーオールオリンピック選手の候補に名前が載っているのを知った時、私は迷わず監督に辞退したいと申し出ました。もう私をとっくに越えた若い子が育っている。その子達にオリンピックを味あわせてあげたい。それが将来のユニチカの強さにも繋がるからと。それにすでに私の足は限界で、もうここ迄でいいと思ったのです。

でも監督は”オリンピックは並の大会じゃない。エントリー12名の中でスタープレーヤーは8名で良い。残り4名は、これはこいつにしか出来ない!という選手を持っていなければ勝てないんだ。お前はお前にしかできない事を作って来たろう。それが何かはお前が一番良く知っているだろう。オリンピックに出ることは、素晴らしく自慢出来る事だけど、本当に素晴らしいのは、オリンピック選手を勝ち取る為に努力した過程なんだ。お前が歳をとっても、その過程を自慢する為にも、もうひと頑張りやれ!”と言ってくれました。

いろんな思いを持って出場したオリンピックはやはりでかかったです。自己表現の最高の舞台でした。スポーツの競技性を追求し登り詰めるところはオリンピックだと感じました。結果は5位でしたが、コートの中にいてベンチの声が聞こえない大観衆の中で、人の顔がはっきり見えない程の観客席の中から大きな日の丸、小さな日の丸、そして日本独特の太鼓の鳴り響く中でプレーできたことは一生忘れられません。

私は自分の出来る限りの力を出したつもりです。しかし今思えば、あれだけ懸けたのにもっともっと頑張る余地も、チームに対する思いやりも、努力出来たかも知れないと思っています。ですから、この前のアトランタオリンピックで女子マラソンの有森選手が、後であの時もっとやっとけば良かったと後悔したくないから全力を出し切りましたと涙したとき、結果は銅メダルだったけど彼女には金メダルと同じに思えただろうと感じました。

ところで、そのオリンピックへ行くまでの私を支えてくれたものは、父母のあふれんばかりの愛情ではなく、いつもはほったらかされているけど、もうだめだと思っている時にくれる、ほんの些細な、でも我が子の事を心底考えてくれた愛情だったと思います。それよりは、聞いていただいてわかる様に、その小さな些細な愛情に反応出来る心を持った子供に育ててくれた父母だと思います。

ただ、楽しい事ばかりじゃない、つらい事の方が多かったのに、私達子供には一言も愚痴をこぼさず、毎日を必死に、一所懸命生きていた母の後ろ姿と、頑固で厳しくて、嫌いな所の方が多かったけれど、私の事を考えていなければ出来ない細かな愛情、それをテレから小出しにしか出せなかった父の姿。私の両親は、口で言うのではなく、自分の態度で私に教育してくれたと思います。そして、私の心の成長に合わせた様に巡り会えた、中学・高校・実業団の指導者の方々の言葉。そして慈しみ。

私は両親に相談したり、先生に言えば簡単に答の出る事を、ひどく回り道をしながら体験していきま した。泣いた事も多くありました。そのおかげで、自立心だけは、人一倍あった様に思います。小さい頃は寂しかったけれど、今になって、かまってくれなかった父と母に逆に感謝しています。そして、母から”何も期待しないで待つ”ということを学びました。私が、かまってもらいいろいろ教えられていたら、今日の私は無かったかも知れません。

自分であちこちぶつかりながら、泣くことが多くても、何とかしないとと考え抜くことがよかったのかも知れません。それに、私がやっと自分の道を見つけ、突っ走り始めたのは、20才過ぎてからでした。無口で、引っ込み思案の私にああしろこうしろもっと頑張れと父母が言っていたら、私は小学校か中学校でつぶれていたかも知れません。人間は、いつか自分の道を見つけ、花開くものだと思います。


◆最後に
最後になりましたが、私が今B.B人生を振り返って思うことは、目の前にチャンスという小石はいっぱいころがっていたという事。でもこの小石は目標を持っていなければ見えない。そして、小石がほしいと思っても転がって来てはくれないのです。

こちらから努力して取りに行かないと。そしてこの小石は夢であり、喜びながら、泣きながら、その夢の小石をこつこつためることが大きな夢に繋がったと思っています。最初からでっかい石なんて拾えません。そしてバスケットを通して、人からは無様に見えたかもしれないけれど、そして実際心が無様なときもあったけどそれを乗り切ることで、今を見事に生きてみたいという思いとその為の頑張る気力を授けてもらったと思っています。

でもこの力は、ともすると男社会と言われる中において、かわいくないと評価されるかもしれませんが、現在女はかわいく仕事をする時代は終わり、その人間がいかに生きながら仕事をしていくかの時代になったと思います。男も給料を家に入れるために仕事をする時代は終わり、いかに生きながら仕事をしていくかの時代になったと思います。

人間17歳から22歳が心理的に成長著しい時期と言われています。今が楽しければいいと楽に生きることは簡単です。皆さん、たった一つでいいのです。かけられるものを持ってください。それがでかくても小さくてもいいのです。皆さん、明るく生きていきましょう。暗いと寂しいです。人の話に素直に耳を傾けてください。素直ってとてもすてきです。自分の目標を持ってください。そしてひたむきに生きてください。